清光山 浄珠院/深草派寺院名鑑の詳細ページ/浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺


 

 

 

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清光山 浄珠院


清光山 浄珠院の画像1
上和田淨珠院は人皇32代用明天皇の御遺勅により、上宮太子自作の尊像を安置し、天台宗の慈覚大師の中興し給うところの道場にして、青光山大海寺と号せり。星霜相遷りて堂宇廃絶荒蕪せしを、応永年間(1394~1427)教然良頓上人圓福寺の会下より帰り、仏殿を造立し、改めて浄土宗となし、淨珠院と号せり。然れども未だ僧院完備せざるを嘆き、享徳元年(1452)上洛して、将軍義政公に会い、後花園天皇に奏請し、天皇宝祚延長祈願の資糧として、砂金百両斉田百貫を賜り、七間四面の太子堂に十三間の仏殿庫院を造立して浄土の法門を弘通す。即ち開山より3代の間深草檀林の地として常に二百余の所化を領せり。その後多くは徳川祖先の領地となり、長親公より広忠公に至るまで、先述の如く羽根村において百貫文の地を下し置かれたり。幾変遷を経て寺域荒廃し、永禄3年(1560)家康公に帰し、永禄6年(1563)一向一揆の時本末寺院の僧徒之を応援し大いに功あり征服す。時にその一向門徒虜囚を断頭に罪すべきを当寺の太子前に於て、神文誓書をたてまつりて放免せしめ、一向の門徒を立て置くことを許されたり。後天正年間(1573~1591)由ありて寺領を失い殆ど廃滅に帰し、僅かに監主の僧を置くのみ。然れども慶長6年(1601)伊奈備前の守より寺領15石を仏供用として供せられる。同8年(1603)東照公より朱印下し給わるべき尊命に依って、三河の寺院社家等皆伏見に到り之を頂戴せり。依って監主急ぎ伏見に到り、伊奈備前の守より15石を領する旨を上言すれば、淨珠院は大寺なり。加増を願い出よとおおせられたるも監主辞退し拝領せず。故に20石の朱印なりと云う。その後星霜を経て30代祥空隆盛に至れり。

 


 

名 称清光山 大海寺 浄珠院 (じょうしゅいん)
本 尊阿弥陀如来
所在地〒444-0201
愛知県岡崎市上和田町字北屋敷55番地 
什 物本尊弥陀三尊立像(慈覚大師御直作)/聖徳太子立像(太子御真作)/釈迦如来涅槃図/法然上人絵図六幅(岡崎市指定文化財) /その他多数
資料・文献御朱印写/松平蔵人信孝公証文/松平広忠公奉行中証文/御朱印改/将軍御他界納経(日鑑)/その他多数
ホームページ
http://www.zyousyuin.org/
特記事項霊園墓地「ぎんなん霊苑」/徳川家、松平家ゆかりの寺

 


 

 

分類カテゴリー:【第十二布教区】 【霊園/納骨塔/永代供養】 【教学資料データベース登録寺院】 【霊場巡り/ご朱印】 【歴史浪漫/文化財】 

 

 

 


 

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